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2010年のつぶやき

2010年のつぶやき

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母の死

2010-11-27
母が死にました。11月21日の午後8時過ぎです。明日を81歳の誕生日に控えた夜です。
母は、もともと腎臓が悪く、昨年の五月から透析を始めました。一度始めると止められないということでしたので、できるだけ投薬や食事療法などで引き延ばしてきましたが、もう限界とのことでした。最初は週に2回から始めました。しかし、一年もすると週3回になりました。かなり進んでいるようでした。
さらに心臓(不整脈)が悪くなり、苦しむことが多くなってきました。朝にいつもの部屋に母の姿がなく、探してみるとトイレで苦しそうにもがいていることが続いておきました。その姿を見て介抱するたびに、このままではかなり危険と判断し、先生と相談して入院治療の形をとりました。透析ができる病院を紹介していただきました。入院後は、不思議と心臓の発作は起きず、透析のための通院もなくなり、元気に過ごしていました。
髪の毛は真っ白になってきましたが、いたって元気なので安心し、定期的に顔を見に行って雑談するくらいでした。
事態が急変したのは、11月20日の土曜日です。この日は出勤のため大学にいましたが、病院から知らせを受けて駆けつけた時には、息が弱く、血圧の低下を招いていました。すぐに酸素吸入をして、しばらく様子を見ていましたら、意識が戻り、私のことも、女房のこともわかりましたので、まずは一安心しました。夕方にはかなり回復し、元気に話せるようになったので、ホッとしました。
翌日に知らせを聞いて弟たちが駆けつけ見舞ったときには、すっかり元気になり談笑するまでになっていました。「びっくりしてきてみたけど、これなら大丈夫だよ」「心配ないね」。弟たちは安心して帰ってゆきました。
「明日はおばあちゃん(母のことです)の誕生日だから、花でも持っていこうや」。私も女房とすっかり安心して話しました。
その夜の電話のコールは、いやな響きがありました。案の定病院からです。あっという間に逝ってしまいました。
寂しいものです。あまりにもあっけなくて、引き止める術もありませんでした。
母の真っ白いわずかばかりの骨を拾ったときに、本当に逝ってしまったのだと感じました。
母のためにできる最後の務めとなった葬儀を無事に出すことができたことが、母への感謝と思っております。  合掌

暑さ寒さも彼岸まで     09.28

2010-09-29
やっと咲き出した彼岸花
 猛暑が続いていましたが、お彼岸に入るころから急に涼しく?どちらかというと寒く?なりました。普通なら彼岸に合わせて咲きだす彼岸花も未だ蕾です。彼岸の後半は雨続きで、所謂「腐れ彼岸」の様相です。少なくとも10日ぐらい送れています。
 今までなら、どんなに暑くても、暑い日の夕方には必ずといって夕立があり、毎日毎日水遣りをする必要はなかったのですが。今年の天気は異常でしたね。庭の植木の何本かは、葉が茶色くなってしまいました。気づいてあわててバケツで水遣りしました。畑の野菜も散々です。家庭菜園は私の楽しみなんですが、今年は全く駄目ですね。
 見方を変えてみると、天気でさえなんだかんだと言っても、ちゃんと帳尻があって来るわけです。物事は、長い目で見れば、いつかは帳尻が合って来て、プラスマイナスゼロになるのでしょうね。
 私達は、そこまで待てなくなってしまったようです。辛抱もできなくなっているようです。ジッと耐えて好機の到来を待つ。今のゆとりのない時代には、最も必要な自然からの教えです。雨が降るまでジッと耐え、葉を落としてまでジッと耐え、雨が降れば新芽を出す、庭の植木に見習いましょう。命の営みはすごい。

幻の長寿王国、ニッポン 08.05

2010-08-05
生真面目な民生委員の疑念から、東京都杉並区に住んでいるはずの113才の女性高齢者が、実は、行方不明であった事が判明しました。前後して、足立区の111才の日本第二位の男性高齢者がミイラ状態で発見され、30年前に死亡していたことも判明しました。これを機に、各行政が改めて100才以上の高齢者の存命?(存在を確認するというもの、何か不思議な話ですが・・・・)を確認したところ、全国で何と48名が不明であったそうです。(8/5読売新聞)。これからもっと不明者は増えるでしょうね。
長者王国ニッポン。名ばかりの高齢者が平均寿命を押し上げていたという事になって、なんともお粗末な話です。女性は25年連続1位。男性はチョッコシ下がって五位。胸張って自慢できなくなってしまいました。
しかしながら、長生きするという事は、何なんだろうと考えさせられてしまいます。自己満足として、ある意味幸せで、ある意味満足して生きてこそと思えるのですが。不明者扱いでは、チョッコシさびしいものがありますよね。  死んでも葬式もしてもらえないのですから。死亡の通知も報告もしてもらえないのですから。寂しすぎますよね。

オグリ 死す。 07.05

2010-07-05

7月4日のあるスポーツ紙の一面は、なんと、オグリキャップの急死を知らせるものでした。放牧先での事故が原因で急死したとか。心から冥福を祈ります。

 地方は岐阜の笠松競馬から身を起こし、実力一本でスターダムにのし上がったオグリキャップ。激動の時代・昭和の終わりに現れた一頭のサラブレッドは、ハイセイコー以来の競馬ブームを巻き起こし、「競馬」というギャンブルを明るく楽しい娯楽にまで押し上げ、日本の競馬を新たな時代へと導いた功労者でした。 雑草魂と常に勝ちに行く根性丸出しのレース振りに多くの共感を得ました。そして、幾多の名勝負を繰り広げ、中央や世界の名馬たちを蹴散らし、多くのファンを魅了しました。ラストランの有馬記念。名騎手武豊かを再度鞍上に、中山の急坂を先頭で駆け抜け、日本中を熱くしてくれたことは、今でも忘れられません。

 話は古くなりますが、昭和47年、一頭の競走馬が大井競馬から中央に転厩します。何を隠そう怪物と異名をとった「ハイセイコー」です。私が大学2年のときでした。前年に「日本列島改造論」を掲げ、エリートでないのに天下を取った田中角栄と、大井から来て弥生賞、スプリングS、皐月賞、NHK杯と、中央のエリート馬を連破するハイセイコーとを重ねていた庶民も多かったにちがいありません。各新聞は「野武士登場」などと書き、競馬ファンだけでなく一般の人々の間でもハイセイコーは話題に登る馬となりました。引退の時にはレコードまで出たのです。「さらばハイセイコー」です。

 いつの世も、救世主は地方から現れるようです。折りしも今は参議院選挙の真っ最中。日本の将来を託すに足る議員は、もしかしたら地方に眠っているかもしれません。「臥龍鳳雛」という言葉があります。行き詰った日本の将来に一灯を燈せるハイセイコーやオグリキャップのような議員の登場を心待ちにしたいと思います。

絶対に負けられない戦いが、そこにある。

2010-06-15
早朝、雀のさえずりに、”オヤ”っと思ってカーテンを開けたら、予期せぬ青空。
”ピーン”ときました。もしかして、勝った?。生島さんのラジオで確認しました。今日は朝から縁起がいい。
”ゴーーーーーーーーール”  いつまでも引っ張る。実況するアナウンサーの声が、全ての日本人応援団の気持ちそのままでしょう。岡田監督初め選手の皆さん、貴重な一勝、おめでとうございます。そして、すばらしい感動と幸せを頂きました。ありがとうございます。本田選手、やりましたね。ナイスゴールでした。
 私は、「早寝早起き」。一緒に応援できませんでしたが、たくさんの方が寝不足でしょうね。七時からのスポーツニュースが待ち遠しいこと。何度も何度もゴールの瞬間を見て、漸く一体感が出てきました。
 下馬評では、全くの苦戦。何人の方が勝利を予想していたでしょう。希望的観測は誰しもでしょうが、確固たる自信で勝利を確信していたのは誰でしょうか。岡田監督でさえ?マークでしょう。でも、ピッチに立っている選手一人ひとり、ベンチの控え選手一人ひとりだけが持つことができた勝利への確信かも知れません。それほど苦しい戦いに勝利したイレブンには、次の戦いに向けて大きな自身になったでしょう。次は、難攻不落のオランダ戦。楽しみに応援したいと思います。 ”ベスト4” かすれて、埃にまみれて読めなくなっていた文字が、微かに、ぼんやりとしてきた瞬間でもありました。オランダ戦こそ、『絶対に負けられない戦い』でしょう。
ガンバレ ニッポン!!

福田山 壽徳寺
〒326-0322
栃木県足利市野田町1463
TEL.0284-71-9130
FAX.0284-71-6183


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